先週、中国語1年生のクラスを見学させてもらったら
そのクラスでは、学生に中国語の名前が付いていました。
英語の名前の音に近くなるように先生が工夫して、とはいえ、
漢字3文字の並んだ、立派に中国人風の名前です。
やはり、名前をもらってしばらくは、指名されても自分だという
自覚がないのですって。
日本の中学でカナダ人の先生の教える英会話クラスを
補助したときは、カナダ人の先生は有無を言わせず、
英語の名前リストを配って、英語の名前を選ばせていました。
こちらは先生の強引なやり方や日本に住みながら日本語を
覚えようとしない態度もあって、反発する生徒もいました。
こうやって、外国語風の名前を使うことには批判もあります。
ちゃんと自分の名前があるのに、なぜ先生がつけるのか、
どうして外国語風の名前にしなくてはいけないのか・・・
私の日本語のクラスも、ファーストネームを英語で読んだもの
をカタカナ表記にして、日本人風の名前は付けません。
でも、自分の名前をキープすればいいってものでもない
気がするんです。
私の英語の先生たちは、幸か不幸か、日本語の名前は
変える必要がない、と考える先生ばかりで、ずっと恵子は
Keikoでいい、と変えさせてくれなかったのです。
ハワイにいたときも、英語名がほしいなあと先輩に言ったら
そんなホスト文化に媚びるようなことは、とお叱りを受けたし。
だけど、どうにしろ、英語化されてしまうんです。
Keikoは本当は長母音入りモーラ3つの、ケーコなんだけど、
英語では有無を言わさず、二重母音入り、2音節のケィコゥ。
ケーコさんとケィコゥ、結局2つの名前に落ち着いている。
気づいたら自分でもケィコゥと自己紹介してたり。
日本語の名前をキープすることで、日本語の名前自体が
変えられてしまった気さえする。
それだったら、英語名があったほうが、ケーコさんは
ケーコさんのままで、さわられずにすんだかも。
中国人や韓国人の人たちで、正しく読んでもらえないからと
英語名をつける人の気持ちも分かるし、ホスト文化に取り
入っているなんて批判するのは、勝手なんじゃないかな。
私の日本語のクラスも、英語圏で生活していて英語の名簿を
使っているので、中国語や韓国語の、漢字のある名前を
持っている学生でも、英語式に読んだものをカタカナ表記。
せっかくの漢字やふたつの名前を持っていることを無視した
英語モノリンガルの命名とも言えるんじゃないかしら?
呼び方って、呼ぶ人によって違うニックネームがあったり、
外国語を学ぶたびに増えてしまったり、Discourse
Communityの数だけ増えちゃうものなんじゃないかな。
外国語風発音の自分の名前だったり、外国人風の新しい
名前だったり、どちらにしても。名前はひとつじゃなくちゃ
アイデンティティーが守れない、というのは違うと思う。
先生やホスト文化が押し付けるのではなくて、学習者自身が
さまざまな可能性の中から選んで、あなたにはこの場面では
こう呼んでほしい、と言えるようにすることが、
学習者の主体性を尊重することになるんじゃないかな。